台湾駅舎鉄

猛暑の浜松から、台風一過の台湾に、時計の針を戻しましょう。集集線撮影のベースとなる台中で区間快速を降りると、1917年に建てられたという赤レンガの駅舎が、おごそかに迎えてくれました。

この駅舎、長い間にいろいろ手が加えられていたのを、最近、創建当時の姿に復元したのだそうです。東京駅の丸の内側でも、今、復元工事が進められていますが、台湾にはレンガ造りから鄙びた木造駅舎まで、戦前の古い駅舎を大切にする風土があるようで、うれしくなります。

そして、鉄道のどこかしらに、一昔前の日本の国鉄、のようなものが残っています。ジリジリジリと鳴る発車のベル、有人改札口のきっぷ入鋏シーン、駅本屋側の1番ホームに着く、首都台北行きの客車列車。。。

その一方で、駅構内にはNEW DAYSと同じようなコンビニがあり、近郊きっぷ用の自動改札機も増えています。民営化直前ぐらいの時期の国鉄と、21世紀のJRが亜熱帯のフィルターをかけて混在しているような……う~ん、これはちょっと、やみつきになりそうです。

食堂車のハンバーグ

ゴハチとの再会をいつくしんだあと、このイベントのメイン、新幹線の展示のコーナーへ向かいました。運転台見学、車掌体験、車体上げ、ドクターイエローと記念写真……どこにも子供たちの楽しそうな笑顔がたくさん群がっています。

会場の片隅に、100系の食堂車が、0系と100系の先頭車に挟まれた、珍ドコ状態で展示されていました。いやあ、こういうのもちゃんと保存されていたのですね。懐かしいなあ、グランドひかり。お名残り乗車に行って、ハンバーグを食べました。

食堂車といえば、子供の頃から何と言ってもハンバーグでした。それが、社会人になって、大阪出張の帰りに会社の先輩と一緒にビールなど飲むようになって、ハンバーグやカレーからは遠ざかってしまいました。

もう一度あのハンバーグを、と最後に食べたとき、何だかイシイのハンバーグみたいな味がして、妙にがっかりしたのを覚えています。それから、もう何年が過ぎたのでしょうか。当時のメニューを表示した看板が出ていて、急にお腹がすいてきました(笑)

ここにいるだけで

日曜の朝、浜松駅。1時間に1本の浜松停車の下り「ひかり」から降りた、たくさんの家族連れがシャトルバス乗り場へ向かっています。酷暑の浜松名物「新幹線なるほど発見デー」、夏休みのレジャーに最適なこのイベントは、昨年から我々にとって、まったく別の意味で、重要なものとなってしまいました。

122と157の両方が展示されていることは、前日のネットの書き込みでわかっていました。122は1年前の同じイベント以来、157は去年の11月、浜松で単機を見送って以来の再会です。会場入口から右に新幹線をめざす大多数の人たちに背を向けて、左方向の在来線車両展示へ。去年と同じくラッセルの奥のほうに、今年は青いゴハチが先に目に入ります。そして、その後ろには、茶色のゴハチ。。。

2日目ということもあってか、熱心にカメラを構えるファンの姿もまばらで、ケータイで子供の記念撮影をする家族連ればかりが目立ちます。その合い間を縫ってひと通り普通のカットを押さえて、ほっと一息つくと、眼前のイゴナナが、望遠ズームのファインダーごしに、夏の光に輝きながら、こちらに迫ってきました。

飯田線で最後の時期、工臨を追いかけた日々のことが走馬灯のように思い出されます。JR東海でも博物館建設の計画が発表されていますが、2輌のゴハチの行く末は、いったいどうなるのでしょうか。気温がぐんぐん上がって、汗がしたたり落ちています。今はただ、彼らがここにいるだけで、、、僕らは、過ぎ去った日々と一緒に立ちつくしています。

台湾もドナドナ

終点の車呈は現在1線しか使用できない構造になっているため、返しの列車はそのまま後部のDLが編成全体をドナドナしていく形になります。ま、いってみれば「DL集集号」(笑)、最近では昨年の夕張や6月の遠軽~白滝でみられたパターンですね。

水里駅の同じお立ち台でサイド気味に後追いを撮り、筆談追っかけを続行します。徐々にドライバー氏に前向きな目的意識が芽生え、指示してない場所でも徐行、身振り手振りで「このへんでも撮ってはどうか」と、頼もしい限りです。

龍泉へ向かう枝道に入ると、踏切でいったん停止、そのまま発信するのかと思いきや、彼はこちらを振り向きニヤリ、線路を指差しました。お、たしかに後追いで光線が良さそうです。「オッケー、ここで撮ります」とこちらの日本語で十分意思が通じました(爆)

しばらくすると、DLの短い汽笛が聞こえ、背後からエンジン音が迫ってきました。カランコロンとドナドナされていくCK124が縦位置のファインダーに収まります。日本のどこかと同じようなお立ち台もあるけど、こうしてみるとやっぱり、ここは南の国なんですなあ。





台湾お立ち台2

集集線のお立ち台を、もう1か所、ご紹介することにいたしましょう(笑)終点の1駅手前、水里駅の発車です。構内車呈方の踏切付近から、適度な引きがとれる、オーソドックスなアングルが可能です。レンズは85~135mm相当(爆)

台湾の撮り鉄の皆さんについては、どこでも走り回り、他人のアングルなど一切気にしない……などと聞いていたのですが、どうもそればかりではないようです。

駅で停車を撮る人たちはたしかにそうで、こちらが1枚撮るのに長い待ち時間が必要でしたが、こうしたお立ち台では、日本国内ほど整然ではないにしろ、先着順に暗黙のうちに譲り合っての三脚の林ができていました。そうはいっても7~8本ですが(笑)

午前の下り列車が順光になります。車呈での折り返し時間が短いので、続いて上り列車をレンズを換えて後追いで撮るのもおすすめです。と、RMのYさん、将来、海外お立ち台通信、お願いしますね~(爆)

台湾お立ち台

午後の蒸機列車は、車窓からのロケハンをもとに、タクシーで追っかけすることにしました。我ながら無謀ですが、紙に「火車撮影」、そして順番に場所を書いて、「SL列車を追っかけで撮影したい」ことを、あやふやな筆談で依頼しました。

いったいどこまで通じたのかわかりませんが、どうも「了解、乗れ」となったようです。最初のポイントは、台湾鉄の先達からも聞いていた、本線との分岐付近。おあつらえ向きのオーバークロスは、さながら「お立ち台通信」に登場しそうな感じです(笑)

三々五々、クルマやバイクで台湾の撮り鉄が集まってきました。といっても、5~6人といったところですが、何気に集まって、自然に談笑する風景は、山口や磐西で見る地元の鉄な方々と同じような雰囲気です。それを、遠征してきた当方が遠巻きに見守るのも同じで(爆)

さすがに気温が高く、ここで山口の爆煙は望むべくもなく、磐西以上のスカが基本でしたが、こういうアングルで撮れただけで、何だか微妙に安心するのは、ニッポンの正しい撮り鉄の性ですなあ。。。

初台湾鉄、集集線へ

台湾から、先ほど帰ってきました。中部の集集線での蒸機イベント運転を中心に、初めての台湾鉄、駆け足でしたがいろいろ楽しんできました。それにしても、ケータイは通じるし、どこにでもコンビニがあって、日本のどこかで鉄してるみたいでした(笑)

が、何しろ急に思い立っての小旅行、初日の朝はダイヤがよく理解できてないし、当然、撮影ポイントを知る由もないし、、、午前中の蒸機列車が定期列車のスジを使っていて、定期のDCはウヤになってることを現地で知り、列車で追っかけのはずが、茫然と立ち尽くす始末でした。

おいおい、ここまで何しに来たんだ……あきらめて食い鉄もいいけど(爆)、まずは撮り鉄だと、無理矢理の筆談でタクシーに乗り、途中駅の停車で抜いて、古い駅舎で有名な集集で、ようやく待ち構えました。がしかし、進入してきた列車は無情にも、島式の外側ホームに。。。

降り出した小雨の中、ケータイのカメラをかざすカップルをスナップして、とりあえず終点の車呈へ。1時間後にやってきた折り返しの定期列車で、午後の蒸機列車のために、車窓からロケハンすることにしました。

夏が来た

お昼のDDの貨物を撮ろうと、再び大沼へ向かう途中、行く手に青空がどんどん広がってきました。いやはや、朝の「北斗星」もこれだったらなあ、とついつい空を恨みたくもなりますが(笑)

D52時代からの湖と駒ケ岳バックのこのアングル、晴れカットをいただけるのは、考えてみるとこれが初めてです。原色来い、の願いは叶いませんでしたが、今年、夏らしい写真のファーストショットとして、かなり満足させていただきました。

また近々レッドクマーの増備があり、北海道のDD51はさらに数を減ずると言われています。北海道の夏らしい、爽やかな風が感じられるような写真を今のうちに撮らねば、という気持ばかりが急いでいます。

東京も、昼間はうだるような暑さになりました。今週末の3連休は、さらに暑さを求めて(?!)、台湾へ行ってきます。新幹線に乗って動態保存蒸機の撮影、何だかパターンは同じですが(笑)、楽しんできたいと思います。ご報告は、連休明けにいたします。皆さんも、それぞれの、いい鉄を!

古典電機、この地に眠る

函館近郊の上磯で、一度見たいと思いつつ、なかなか実見が果たせていなかった保存車両が、日本セメント上磯工場の5号電機です。今回、「北斗星」撮影の後にやっと見てきたのですが、いやあ、これがなかなか素晴らしい。

この工場の電機については、RMの名取さんのブログで詳細がレポートされていましたが、1985年に全機が引退、横浜に戻って製造元の東洋電機で保存された2号機に対し、この5号機は工場にほど近い地元の運動公園に残りました。

上磯町が現在は北斗市となった地元自治体による説明板には、「町民の皆さんにあたたかく見守られ、現役で還暦を迎えることができたこの機関車は、どんな華やかな機関車よりも幸せであったに違いありません」と記されていました。

1923年製のこの機関車、「北斗星」が走り始めるほんの少し前まで、現役で働いていたのですね。この地でそのまま、働いていた工場を眺めながら、屋根の下で居眠りをしているこの機関車は、何とまあ、いい味を出しているではありませんか。

やがて北斗星に落日が

で、すでに青函トンネルで新幹線対策工事が始まっている現在、1往復に減便された「北斗星」に、やがて落日の影がしのび寄ってきます。

「カシオペア」と「トワイライト」が豪華列車としてそれなりのスタンスを保っているのに対し、北海道直通夜行の元祖の「北斗星」は、最近すっかりその影が薄くなったように思えます。いつのまにか運転開始からもう20年、「富士ぶさ」ほどではありませんが、どことなく疲労感が漂ってきました。

星ガマや95、ときにはカシガマに牽引される本州、青いDD重連の北海道内に比べて、今や時代がかった交流色を保つED79先頭の海峡区間は、そんな「北斗星」のゆるやかな落日を、すでにほんのり漂わせながら、日々の歩みを繰り返しているようです。

残念ながら朝のバリ晴れとはいきませんでしたが(笑)、海峡のトンネルを抜けて、Sカーブを描きながら函館をめざすED79、これは東海道の「富士ぶさ」に勝るとも劣らない、素晴らしきブルトレ時代の鉄道情景ですね。

なぜか新幹線

保存車両なぜかシリーズ(笑)、風爽やかな北海道に渡ります。大沼の先、流山公園駅のそばにたたずむ東北上越200系。数年前に「SL大沼号」で立ち寄ったときよりも、侘び寂びの雰囲気が出てきて、なかなかというか、何というか。。。

説明板によると、北海道に新幹線が走ることを願って、耐寒耐雪型の200系を展示した、とか。なぜか、ではなく、ちゃんと理由があるというわけです。言われてみるとまあ納得しますが、う~ん、やっぱり、なぜか新幹線って風景にしかみえません。

今回、早朝の「北斗星」を狙うために泊った木古内のビジネスホテルは、ワンフロアが新幹線工事の関係者で貸し切られていました。たまたま入った居酒屋の女将も「東京の娘のところに行くのはやっぱり新幹線。飛行機は嫌い」と力説していました。

八戸乗り継ぎでも、十分東京が近くなって、行き来がしやすくなったそうです。う~ん、鉄道復権なのか、無駄な整備新幹線の一例なのか……現地でそのあたりの構図を垣間見ると、何とも複雑な気持になります。

なぜかC50

では、保存蒸機なぜかシリーズ、続けます(笑)都内足立区の公園に、亀山で入換やってたC5075号機。このカマは1969年に現役で撮ったことがあり、保存された当時から、「なんであのカマが東京で保存されるんやろ?」と思ったものです。

1971年3月の廃車ですから、大宮や新鶴見にはもう蒸機はいなかった時期です。それにしても、わざわざ亀山から、、、そういえば、行田のC5726号機、青梅のD51452号機と、相前後した時期に天鉄管内から関東へ保存蒸機が来ています。う~ん、謎だ?!

当初はその地区の所縁のある機関車が地元で保存されるというパターンだけだったのが、このあたりの時期から、さまざまな地方自治体からの要請で、他地区から送り込む、という時代になったのでしょうね。国鉄のどんな部署が管轄してたのでしょう? あるいは管理局どうしのやりとりもあったのか……天鉄局から東京へ転勤されたどなたかがいらっしゃった、だけだったりして(笑)

現役蒸機最末期になって、北海道から首都圏や関西の都市部にどんどん保存機が送り込まれるようになる前の、まだまだ「なぜか」が楽しめるのが、70~72年あたりの時期ですね。いやはや、いい酒の肴がほかにもたくさんありそうです。

なぜかD50

北見の駅裏には、D5025号機が保存されていました。D50の保存機自体が、梅小路の140号と、この25号機のみ。大正からの大所帯であったのに保存車が少ないのは、SLブームの前に、早く廃車が進んでしまったからなのでしょうね。

我々の知っている現役デコマルは、北九州と、あとは米原と福井にかろうじて残るぐらいでした。まともに撮ったのは、梅小路入りする直前の140号機を、筑豊でやっと捉えたときだけでした。

昭和43年、追分で廃車、と説明板にありました。とくに由縁のない北見にやってきたのは、なぜだったのでしょうか。遠い記憶では、追分にしばらく放置されていて、鉄道友の会か何かの保存運動が行なわれた、と雑誌で読んだような、、、

北見に現役の蒸機がまだワンサカいた時代から、この公園にじっとたたずんでいるD5025号機は、なかなかの保存状態で、静かなるものとしての貫禄すら感じられました。



カートレイン往来の頃

団長さんがモトトレインで北海道にいらした話を聞いて、カートレイン華やかだった頃を思い出しました。モトトレインはたしか「八甲田」に併結だったでしょうか。ヒガハスあたりで一度ぐらい撮ったことがあるような、ないような、、、探すのに時間がかかりそうです(笑)

カートレインは本家の東海道に始まって、名古屋からのユーロライナー、北海道へ行くスジもありましたね。今探してみると、ほとんど、ついでにしか撮っていません。東海道は20系、北海道行きも黒磯までPF牽引で、なぜもっとちゃんと撮らなかったのか……ま、こういう後悔は、いつものことですが(爆)

その中で唯一、少しはまともに撮ったなあ、というのが「カートレインユーロ名古屋」でした。運転開始当初は、ユーロ色の65がまだ105号機1輌で、一般色の65と交互に運用に入っていました。そのどちらも、ユーロ客車に同じ色のパレットを連ねた編成に似合っていて、イゴマル撮影のついでではありましたが(笑)、こうしてバルブまでしたものです。

意外と需要は伸びなかったのでしょう。気がついてみたら、カートレインという言葉自体が、定着しないままに消えてしまいました。今思えば、一度はクルマと一緒に乗ってみたかったなあ、と思います。当時は撮るのに夢中で、とてもそんなことは考えませんでしたが。。。

常紋いつかまた

今週末は久しぶりの撮影オフ、家で昔の写真をあれこれ眺めながら、のんびりと過ごしていました。石北から帰ってきて1週間、いい感じの余韻が残っていて、古いネガを蛍光灯にかざすだけで、耳には往時のドラフトが聞こえてくるようでした。

行った人にも、行かなかった人にも、今回の「SL常紋号」は、いままでにないインパクトを残したようです。現役時代の名所に汽笛が響く、それだけでもう、十分でした。ましてや、DDの撮影名所としても、綿々と鉄の足跡が受け継がれ続けるこの沿線、C11171を見守る保存機や雨宮21号の姿も秀逸でした。

あの名所に、蒸機が走ってほしい。そんな場所はまだたくさんありますね。石北に近いところでは、釧網本線の網走方。流氷の季節が無理なら、花咲き誇る夏にぜひ。C11の故郷で言うと、日高本線が残っています。東日本では、只見ですっかり定着したC11325+旧客で五能線なんていいですね。西なら、C56にDL補機付きでいいから加太越え。C571号機の山陰本線西部海沿いというのも、さぞ素晴らしいことでしょう。

そして、常紋の峠にも、いつかまた汽笛の響かんことを。今回行かなかった、150kpの感動は、そのときのために、とっておきましょう(笑)





幸せの住む森

丸瀬布の雨宮21号にも、久しぶりに会ってきました。「SL常紋号」は白滝での折り返し時間が意外と少なく、下り列車のスタンバイに入った向きが多かったのか、広々とした森の中の公園に、鉄の姿はまばらでした。

ここにも、夏にやってくるのは初めてでした。まばゆいばかりの緑を小さな身体いっぱいに浴びた雨宮21号は、秋の紅葉に包まれた時と同じように、この森に生きる幸せを、愛らしく振りまきながらエンドレスの線路を回ります。

アクセスの良くないこの場所で、動態運転を維持するには、我々が想像もできない現場のご苦労があるのでしょう。それを考えると、こののんびりした雰囲気は喜んでばかりいられないのですが。。。

踏切が鳴り、汽笛が何度か響くと、幸せ住む森の蒸機列車が、オープンエアの客車に笑顔を乗せて、ゆっくりとファインダーを横切っていきます。芝生に座ったままでシャッターを切りながら、まもなく80歳を迎えるという、この小さな機関車に幸多かれと祈りました。



江川とさんまの世代

同世代の有名人といえば、江川とさんま。ずっと、我々の年代は、中途半端な年代といわれてきました。団塊ほど主張があるわけでもなく、ちょっと下ほどドライでもなく(笑)、、、ふと思ったのですが、どうも鉄の世界でも、そんな中途半端な年代でもあるようです。

聖地・常紋……我々の少し上の年代の鉄な方々は、冬、俯瞰アングルを求めて果敢に山登りをされたのでしょう。そして、ほんの数年下の年代の皆さんにとっては、現役蒸機終焉の寸前に見た、かけがえのない光景が、ここにあるのでしょう。

我々は、そのどちらでもないような気がします。奥中山や狩勝には間に合わなかったけれど、布原も加太も大畑も、中途半端に知っている。常紋は、それらと同じ素晴らしい撮影地ではあるけれど、聖地、という気持にまではなれないのです。そして、最後の時期、我々は大学受験のため、撮影から遠ざかっていました。。。

遠軽でC11が休息中、ガンボウ岩の下に保存されているD51を訪ねました。保存機として、すでに30数年の齢を重ねた、落ち着いた表情をしています。峠と街の、すべての喧騒をよそにたたずむその姿が、静かに心を打ちました。







むかし機関区があった

遠軽に着いたC11が単機で山側の側線に入って、給水や給炭の作業が始まりました。もとはといえば現役蒸機の時代、機関区があったのが、この駅と山との間の場所で、オブジェと化したターンテーブルだけが、往時の姿を偲ばせています。

佐倉さんのところで、現役常紋のシリーズが始まりましたが、何と、1972年の遠軽駅前旅館の領収書が登場、懐かしい世界にどっぷり浸らせていただきました。それも、「別冊週刊読売」(!)に挟まって保存されていたとは、もう涙ものですね。

一泊料金が2200円かぁ……私は残念ながら30年前の遠軽に泊る機会はありませんでしたが、ほかの街では駅前旅館を奮発したこともありました。ともあれ、遠軽のホームや跨線橋から見える活発な煙、そして、夜行連泊で疲れた身体を休めた待合室の賑わいを、今もぼんやりと思い出します。

ひととおりの作業が終わって、給水車や作業車が去ってしまうと、むかしと同じ跨線橋から見下ろす風景が、一瞬、時を超えたような錯覚に陥りました。




峠へ向かう2

遠軽で二度スイッチバックした「SL常紋号」は、今度は生田原方から、夏の夕暮れの峠へ向かいます。これが、おそらく日本の珍ドコ列車の歴史に新たな1ページを記す(爆)、逆C11+DE15×2+14系4Bという編成。。。

あれ~、遠軽にまだ転車台があったよなあ、と思ったのですが、すでに線路とつながっていない、廃墟のオブジェと化していました。146kpは、金華方よりは容易なアクセスができそうでしたが、さすがに鉄板が先頭では、不朽のSカーブも興ざめですね。

ホーム1本の無人駅、生野のあたりに、鉄なクルマが集結していました。その大多数が、珍ドコ編成ならではの真横ねらいのようで、我々もカマ3輌分の長さを慎重に測りながら、緑豊かな山をバックに、アングルを選びました。

思ったより速いスピードに戸惑いながら、真横でシャッターを切り、ふと、カメラを後追いに振ると、思わず息を飲むようなシーンが、ファインダーに収まりました。考えてみると、30数年前も、この数年も、北海道がいちばん爽やかで美しいこの季節に、ここへやってきたことはなかったのです。
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