やっと、光が

いつのまにか千歳のビジネスホテルや居酒屋に、ちょっと詳しくなりました。大空港のお膝元、もともと通過するだけだった街に何度か泊ってるうちに、ここには北海道の海の幸、山の幸がこじんまりと揃っているのがわかってしまい、夜の便で着いた後のわずかな時間にも、ついつい1軒、のれんをくぐりたくなります(笑)

しかし、明日の朝は5時前に出発なので、そう深酒もできません。たいていは、刺身を1品と、何かをもう1品。その程度で我慢するのですが、今回は夕方に千歳に入ったので飲み始めが早く、ちょっと酒量もアップ、、、8月になるともうそろそろ5時半の走行写真はキツくなるだろうなあ、千歳に泊るのもまた来年と思うと、まあ、いいか(爆)

その、お気楽な心構えが功を奏したか(?!)、4度目にして、やっと、柔らかく光が当たりました。バリとはいきませんが、もうこれでも十分感動モノ、それにしても14系、いいですなあ。泣けてきます。また、星ガマとのマッチング、ラインの揃い方も素晴らしい。

また来年、千歳で飲んで、翌朝のバリな光を期待しましょう。とはいうものの、この国鉄時代の色濃い列車、いつまでこの姿で走ってくれるのでしょうか。この「はまなす」の前にやってくる「まりも」は、秋のダイヤ改正で臨時に格下げが決まったそうです。この現代の奇跡のような列車にもっと光を! と願うばかりです。




もうひとつの再会

ゴハチとの再会、懐旧のユーロガマと、このブログだけ見ていると、このイベント、まるで浜松カマヲタ祭りって感じですが(笑)、実は当然、新幹線がメインの「新幹線なるほど発見デー」で、新旧新幹線車両の回りの親子連れ渋滞は、大宮の比ではないほどでした。

いわゆるドクターイエローに近づくのは至難の技、それでもやっとの思いで、懐かしの0系先頭車の前に潜り込みました。お~、これだ、これだ。そりゃあ、そうだよなあ。ここには保存されてて当然だよなあ。。。そんな当たり前のことをまったく予想せずにやってきただけに、突然の再会に戸惑うばかりでした。

東急の電車もそうでしたが、0系、現役時代は1枚もまともに撮ってません。東海道から引退のときも、お名残り乗車はしましたが、わざとカメラを持たずに行きました。故郷京都と、東京を往復する、かけがえのない存在として、心のフィルムにだけ、残しておきたかったんですね(笑)

いつもの後悔は、もうやめにしましょう。ゴハチと同じように、雨上がりの青空に、この懐かしき顔が浮かび上がっています。人いきれの中の一瞬でしたが、かけがえのない再会を二つも果たすことができて、満足のうちに浜松工場を後にしました。

ユーロガマ忘れじ

浜松では、EF58122同様に引退して保管されている2輌のユーロライナー色の電機も展示されていました。そう、昔は「なんだ、またユーロガマか…」と思ったりしたこの塗色、今やEF6435を残すのみとなっているのですね。

ロクニのシュプールを撮りに行った夜明け前の黒姫で、雪が深々と降り積む中、このEF6466が「シュプール・ユーロ赤倉」を牽いて入線、かじかんだ手にレリーズを握り、凍えながらバルブをしたのが、別世界のことのように、思い出されます。

EF65は「カートレイン・ユーロ名古屋」が印象に残っています。ちょうどイゴマルの「ふるさと号」が運転された年末の山陽路で、眠い目をこすって、これまたバルブに精を出しました。東海エリアへ帰ってきた終着駅の熱田で、乗務員氏とあれこれ語り合ったのも、のんびりした記憶として残っています。

今はもうチキ車しか牽く機会がありませんが、機会があれば、工臨折り返しのどこかの駅でEF6435号機と、ユーロガマの仲間達の想い出語りをしてみたいものです。

雨上がりの再会

浜松駅に着くと、すでにシャトルバスへの長い列ができていました。はやる気持を抑えるように、まだましなタクシー乗り場の列に加わり、抜け道を通って会場に到着。在来線車両展示はどこか~?と、配られた地図で確認しました。

工場施設に沿った引込み線にラッセルを付けたDE15が見え、その向こうに2輌のユーロガマ、さらにその向こうに、、、見慣れた茶色いゴハチの顔が、行き交う人ごみに見え隠れしています。122、思えば、昨年6月の浜松駅以来の再会です。

親子連れを対象としたイベントのため、もちろん、撮影のための特別な配慮はされていません。それでも、正面がちに撮れる位置、斜め前から撮れる位置に、何気に(笑)通行人が途絶えるのを待っているファンの姿が、たくさん目につきました。

写真を撮り終わってから、どれくらいの時間、目前の家族連れをただぼんやりと見送ったでしょうか。キャブの中には「二休車」の札がかかり、下回りにも少しサビが目立っていましたが、梅雨明けの青空に照らされたナンバーと飾り帯は、いつまでも見飽きることがありませんでした。





美しきブルー、短い季節

国鉄がJRに変わる夜の記念列車もくたびれたままの姿で牽いたEF58122号機でしたが、数か月後に浜松へ入場し、美しきブルーのゴハチとして、颯爽と東海道を走るようになりました。宇都宮時代からの電暖表示灯が撤去されたのはちょっと残念でしたが。。。

当時、JR東のロクイチとパック、JR西のイゴマルと残ったゴハチは茶ガマばかりで、122のブルーはひときわ普通のゴハチらしさを醸し出していて、またそれが東海道というゴハチ本来の舞台を走るというところに、えもいえぬ魅力がありました。

出場後すぐに、ユーロライナーとの組み合わせも名古屋~米原で実現しましたが、夏が終わろうとする頃、沼津を朝に発車して、いい時間のカナキクを通るスジに入った日は素晴らしい晴天に恵まれ、シャッターを切った後、ファンの間から誰彼となく歓声があがりました。

この美しきブルーの時代は、結果的に短かっただけに、愛惜の念とともに、思い出のヴェールに包まれています。私は、その後の茶ガマも大好きでした。引退から1年が過ぎ、どんな気持での再会となるのだろうか、と122撮影のあれこれを思い出しながら、今朝、浜松へ向かう300系の「ひかり」に揺られていました。

上倉沢、曇り空の下

数日前、大宮さんのところで、カナキクの大カーブを行くEF58122+ユーロライナーの写真が紹介されていて、ヘッドマークや122の姿から、お、これ、初組み合わせのとき? と、JR移行前後の122のことが、しみじみと思い出されました。

国鉄最末期に静岡へ移ってJR東海に継承された同機でしたが、しばらくの間は、田端(宇都宮)で操配用の役割を終えて留置されてたときと変わらない、くたびれた姿で運用についていました。現役っぽい、といえないことはないでしょうか、ちょっと程度問題だよなあ、という感じでしたが、それでも運用をキャッチするといそいそと興津やカナキクへ出かけたものです。

田端(宇都宮)の末期に前面のナンバーを白く塗られたこともあって、順光よりサイドがちに撮ったほうが、、、とアングルを考えたぐらいでした。その122が、初めてユーロライナーを牽くと聞いて、今日ぐらいは少しキレイになって来るかなあ、と思ったのですが(笑)

曇り空の下だったので、この上倉沢の直線と、大宮さんが撮影された下倉沢の大カーブに、ファンが分かれたようです。やっぱり、くたびれたまんまかぁ、とがっかりした通過後のひとときも、今は懐かしい思い出の中にいます。

夕陽に染まる記憶2

火を落としたカマが並ぶクラの外れに、C586号機が柔らかい夕陽を静かに浴びながら、ただじっとたたずんでいました。このカマにはまだ火が入っていて、その姿には何ともいえない雰囲気がありました。後年、その話がsenrobataさんの口から出たときは驚いたなあ(笑)

実は、この数日の夏の旅をアテンドしてくれた横浜の友人とも、30年後に再会が待っていました。これも、ネットという、当時は想像もつかなかったツールのおかげでした。鉄道お宝写真発掘の草分け的存在だったサイト「フジシローの鉄道写真館」をフジシローさんと一緒に開かれたKさんです。このサイト、残念ながら休止されてしばらく経ちますが、Kさんも、フジシローさんも、お元気かな。。。

今こうしてブログやってるのも楽しいけれど、鉄なサイトが次々と立ち上がり、遅いアナログ回線か、やっとの思いのISDNで飽きることなくネットサーフィンしていた時代も、いつのまにか、もう懐かしさの範疇に入ってきました。

昨日今日と、行ったり来たりの時間旅行が、少し過ぎたようです。中学生はそろそろ京都へ帰る時間のようです。祇園祭のときに東へ行くなんて、京都のボンの風上にもおけませんなあ、37年前の枯れ鉄さん!(爆)



夕陽に染まる記憶

高崎へ着いた我々は、少し疲れた足をひきずるのももどかしく、夕刻の高崎第一機関区へ向かいました。八高線ではかなりの貨物がすでにDLに代わっていたので、機関区に行けばカマがたくさんいるだろう、と子供なりに考えた行動だったようです。

事務所で許可をもらって、扇形庫のところへ行くと、数人の同年代のファンが先に撮影していたような記憶がぼんやりとあります。そして、あとでもう2人ぐらい、そこへ加わったような、、、いずれにせよ、夏の夕暮れのけだるい空気がクラのまわりに漂っていました。

扇形庫とそのまわりには、すでに火を落としたカマの姿のほうが多かったように思います。ナンバープレートを外したのも何輌もいて、中にはこんな侘しいペンキ書きのキャブのカマまでいました。2輌同時に休車になったのでしょうか、それとも、何か別の混乱があったのでしょうか。この時代には、保存機のナンバーが取り違えられるという珍事件が実際に何件か発生したようですが、たしかに一度ナンバーを外してしまえば、混乱することもあったのでしょうね。

しかし、おそらくそこにいたであろう横浜の少年と、30年後にネットでやりとりをしてこの日の写真を見せ合い、オヤジどうしで撮影にも出かけたりすることになろうとは夢にも思いませんでしたね、senrobataさん。

八高線で高崎へ

錦糸町から品川へ出て、カーブを飛ばす京急のスピードに驚きながら横浜へ。友人宅で1泊させていただき、翌朝は横浜線経由で八高線へ向かいました。横浜線、まだ旧国時代ですね。1枚も撮ってないのが悔やまれますなあ(笑)

暑い日でした。明覚で下車、小川町との間で貨物やDCを撮影しました。ハーフサイズのネガに、当時少なくなったデコイチの貨物を含めて何枚も走行写真が残っていますが、いやはや全部動体ブレ。何しろ、当時のガキにはシャッタースピードという概念がない(爆)

だから、ハーフで撮った写真で今何とか見られるのは、相手が停まってるものばかりなんですね。望遠とか広角とかの概念もぼんやりしていて、それでもシャッターを押せば、雑誌と同じような写真が撮れると思っていたから、呆れかえります。

もう高崎も間近の駅で、デコイチとすれ違いました。向こうに架線が見えるので、倉賀野でしょうか。こちらのDCが着いたので、小休止が終わって発車準備という雰囲気です。ネガの褪色かもしれませんが(?!)、このD51745号機、青ナンバーのようにもみえます。

錦糸町楽天地

1970年夏への時間旅行、舞台は江東、都電の行き交う錦糸町駅前に移ります。横浜の友人に連れられて、まずは専用軌道も残る38系統に乗車、車内からスナップしながら最後は錦糸町に戻り、行き止まりの電停であれこれ撮影したようです。

国電のガードのそばにロッテの看板と大きな映画館があり、「楽天地」というのが何を表わすのか、首をひねったことを思い出します。キネマの天地、から来ていると知るのは、ずっと後に、芝居や映画で「蒲田行進曲」を観たときのことでした。

しかし、考えてみれば、これが中学生が最初に見た、東京の繁華街だったのですね。キャバレーやトルコの看板、見たなあ(笑)なぜ、新宿でも渋谷でもなかったのか。それはただ、都電があるかないか、だけでしたが(爆)

中央線から東横線の東京暮らし、錦糸町とはいまだにほとんど縁がありません。数年前、初めて錦糸町で食事をする機会がありました。タイやベトナムのエスニック、現地風の美味しい店でしたが、昭和の楽天地、とはすっかりかけ離れた街の雰囲気でした。

1970年、東への旅

台風のおかげで、すっかり休養の三連休となりそうです。ANAにもJALにも乗れないこんなときは、タイムマシンに乗って、時間旅行を決め込みましょう。

最近、仕事で御茶ノ水へ行く機会が増えました。千代田線で行くことが多いのですが、たまにJRに乗ることもあり、高台と川の間のホームに下りるたびに、この駅は変わってないなあ、とつくづく感じ入っています。

大阪万博の夏、祖母の見舞いで、この駅に初めて降り立ちました。ガロの「学生街の喫茶店」がヒットするのはまだ先の話ですが、病院の逆側の街に、大学と喫茶店や画材店、食堂の並ぶさまは、京都の百万遍や出町とはまったく違った雰囲気で、背伸びしながら歩いたのを思い出します。

「特別快速」という表記は関西にはなく、この看板だけで心ときめきました。もはや表示器になってしまいましたが、この文字が電車の顔の真ん中に躍るのも、もうじき見納めなんですね。

ナナゴ残照

東海道からゴハチを追ったEF62でしたが、54輌のメンバーの中で、それほど面白い形態のバリエーションはありませんでした。一部のカニパンぐらいが特異な存在でしたが、それも末期には廃車流用品でデカパンに戻されてしまいました。

やはり、鉄の間でブームを呼ぶカマというのは、ある程度の大所帯で、なおかつ形態の変化がいろいろ楽しめるものなのでしょう。ゴハチ荷物列車の晩年期は大窓小窓、Hゴム黒白、よろい戸そしてツララ切りと、まさにバリエーション百花繚乱だったのだと思います。

今日は何が来るのだろう。。。オッ、目当てのカマ! 姿を確認した瞬間、心躍ったり、ガッカリしたり。スターロコはもちろんですが、ごく普通のカマにもそれぞれのお気に入りがいたりします。そして、その後の運用を追い、変運用を予測する、それがカマ屋さんには無上の楽しみなのですね。

今、東北で最後の光を放つED75も、フリークの皆さんには同様の楽しみがあるようです。先月、弘南&十和田の合間に追ったナナゴ貨物ですが、このカマが現われたときのハチマル29さんのはしゃぎぶりは尋常ではありませんでした(笑)

長野駅夜明け前

大宮さんのところで東海道荷物時代のEF62の夜の秀作がアップされていて、山から下りる前の長野駅の風景が思い出された、と珠玉の文章が綴られていました。

東海道のロクニ、私はたしか一度もバルブしていません。ただ、長野駅では何度か夜に撮影したことがあり、早速荷物列車時代のカットを探してみました。うん、たしかに、明るさといい、ホームの建て組みといい、沼津あたりと共通の雰囲気があります。

国鉄時代の鉄道管理局のあるような拠点駅の常でしょうか。この頃はまだ夜行列車の発着も多く、ホームの照明は明るく照らされていました。どころか、待合室も一晩中開いていて、酔客にまぎれた鉄の姿もあったのでしょうね。

この写真は86年8月の撮影です。この年の秋のダイヤ改正で東海道、信越どころか日本全国から荷物列車そのものが消えてしまいます。そして、ロクニは最後の6輌を残して、気がついたときには思い出の彼方へ去っていってしまいました。

少し遅めの品川情話

大宮さんや伊知郎さんが、59.2改正で東海道荷物から撤退するゴハチを追っていらっしゃった頃、私はまだ、まっとうな若手サラリーマンとして、酒と仕事の日々を過ごしていました。大学入学で鉄をほとんどやめて、まもなく10年になろうとする頃です。

その年の初夏のある日、書店で何となく鉄な雑誌を立ち読みしてしまったのが、運のつきでした。RF誌の表紙に踊る「EF62置換えルポ」の字に吸い寄せられるように誌面をパラパラと、、、そうか、あのEF58がなくなる時代なのか、で、ン? 信越線のEF62が東海道? そんなことはどうでもいいけど、久しぶりにカメラでも出してみるか。。。

ですから、私は品川駅のホームにゴハチフリークが集まって、品川丼食べながらゴハチの重連単機を眺めたという素晴らしき時代に間に合っていません。改正からしばらく経った頃のRM誌で、たしか「品川情話」と題された心にせまる文章がありました。たしか空撮写真のレギュラー記事で「青空の下、レイルは光る」だったと思います。

数年遅れた品川デビューでしたが、それでも当時は東北・高崎筋から山貨を経由して東海道へ向かう団臨が多く、臨時ホームにはあの時代の独特の雰囲気が残っていました。今日のシナ座はロクニかぁ、ゴハチじゃなくてがっかりだけど、1枚ぐらいは撮っとくか。いかにも切ない、少し遅めの品川情話です。

ひっそり こっそり めだたずに

70年代のRF誌に、たしかこんなタイトルでどこかのナローを紹介する記事があったように思います。それとはまったく時代も状況も違いますが、80年代の半ばのわずかな時期、東海道を駆け抜けたEF62は、この趣味の歴史の中に、すでにひっそり、こっそり、目立たない存在になりつつあるように思います。

大宮さんのところで、根府川を行くロク二の下り荷物列車の写真がアップされていました。上りアングルで別の列車を待ち構える鉄多数の姿が写っていて、あの頃の空気が瞬時のうちに伝わってきて、懐かしい思いでいっぱいになりました。

私もほとんどゴハチ撮影のほんのついでにしか、ロクニの荷物列車を撮っていませんが、ロクニ超フリークの長野のKさんにお付き合いして、何度か東海道の団臨も撮ったことがあります。たしか品川で1日の運用間合が設定されていて、MGの必要なシナ座を中心に、昼間の日帰り運用に充当されていたと記憶しています。

後年、ロクニ&ジョイトレは末期の信越線で追いかけたおすことになりますが(笑)、この、ひっそり走っていた東海道の客車列車、今数少ない写真をみると、いかにも味わい深い雰囲気につつまれています。

撮らなかった写真

これ、昨日の夕刊のあるコラムのタイトルです。作家の柴田翔さんが、人生の長い時期を過ごした街の変化はぼんやりとしか意識しないもので、写真を撮っておけば、と後悔するのはいったいどんな心なのだろう、と問いかける秀逸の文章でした。

あのとき撮っておけば。。。これは撮り鉄にとって永遠の命題ですね(笑)でも、何から何まで撮るわけにはいかず、まあこういう後悔を繰り返すこと自体が、この趣味の素晴らしき醍醐味ではないか、と自分を納得させているのですが(爆)

今回、8039Fを大はしゃぎで撮影するまで、東急の写真は1枚も撮ったことがありませんでした。ですから、東横線の青ガエルがいつ消えたのか、その後のステンレスがどう代替わりしたのか、目蒲線や池上線から緑の電車がいついなくなったのか、みんな鉄な雑誌の小さな記事で見て、ああそうかと思うだけで、まさしくぼんやりと「撮らなかった写真」に思いを馳せる結果となっています。

でも、消えてしまった街角の風景とちがって、東北へ行けばこんな写真が撮れますし、信州や熊本、あるいはインドネシアでも撮れますね。ちょいと夏休みの撮影計画に、ステンレスの旅路の果てを加えてみようかと思ったりする梅雨の夜です。

歌舞伎はまだ走る

祭りのあとと思ったら、今日の学大9時17分発、渋谷行きは東横線に2編成残る8000系の更新車、通称「歌舞伎顔」が充当されていて、そうか、こいつらはまだもう少し走るのだなあ、と車両置き換え時の複雑な感じを思い出しました。

その昔の蒸機現役時代、ヘッドマーク付けたさよなら列車が休日に走ったあとも、定期列車には蒸機が使われていたとか、何か月かDLの予備で蒸機が待機していて、実は○○線の蒸機最終列車は地元ファンのみぞ知る事実があったり。。。

そういえば、先日の8039Fリバイバル急行は「東横線8000系さよならイベント第1弾」と東急の公式HPで発表されていました。ですから、歌舞伎を使った第2弾、あるいは大井町線のシングルアームを使ったイベントもあるのかもしれませんね。それを楽しみに思うようになってしまった自分が怖い(爆)

しかし「歌舞伎」とはよく言ったものですね。今朝はなんと途中駅で自分の乗った歌舞伎と、もう1本の歌舞伎がすれ違い(笑)。。。もうしばらくは、通勤で乗る電車に一喜一憂することになりそうです。

自由が丘、あの頃

8039F急行リバイバル、下りはもとの時代にはありえない、最初で最後の「元町・中華街」行きで運転されました。おいおい、やっぱり桜木町行きだろう~と最初は思いましたが、一般乗車OKの臨時ですから、そういうわけにもいきませんね。

曇天が続いた2日間でしたが、最後の下りを自由が丘を出たところで待ち構える頃には、夏らしい強い日差しが行き交うステンレスを照らすようになりました。お~、トップライト気味ながら順光だよ~、と学芸大学の鉄ちゃん大はしゃぎ(爆)

そして、考えてみれば、桜木町で降りて、元町や中華街行ったのだから、これまた良し、という気分になってきます。この沿線に越してきた最初の頃、自由が丘デパートの前で待ち合わせして、急行桜木町行きで中華街行ったの、思い出すなあ。フローレンスセイコができた頃で、その並びのショットバーで無駄話ばかりしてたあの頃。。。

8039Fは昨夜のうちに、長津田へ回送されたそうです。一夜明けた今朝、8000系が最後によく充当された学大9時17分発渋谷行きと、行き交う下りの武蔵小杉行きもみんな5000系で、昨日のざわめきが嘘のように、こちらもただの通勤客に戻ってしまいました。







渋谷行き急行

しかし我ながら驚くほどいきなり東急ヲタと化した当ブログ、赤い急行板の復活に皆さんからコメントいただき、今日も学芸大学の鉄ちゃん大はしゃぎ(爆)で、8039F急行リバイバルを撮りに行って来ました。

編成写真は昨日けっこう押さえたから、今日は急行板を強調する正面アングルで行こう、それも往時を偲ばせる「渋谷行き」で。そうなると、いつもの通勤の乗車駅のホーム先端、、、この駅で写真撮るの、初めてです。少年と少年の間に、何とか場所確保。う~ん、ちょっと奇妙な心持ですが、これこそ地元の記録、価値あり、と自分に言い聞かせます(笑)

kuha153さんからコメントいただいた、RJ誌表紙の広田さんの写真、鮮烈でした。赤い急行板、いつの間になくなったのか、気にとめてもいませんでしたが、今思えば、ある時代の東横線の優等列車の象徴でした。公園通り、パルコ、ジァンジァン、、、渋谷が時代の先端をリードし、羨望のまなざしで眺められた時代。。。

昔から変わらないゴルフ場とスーパーの建物をバックに、通いなれた駅の、見慣れた風景の中を、赤い急行板のステンレスがゆっくりと迫ってきます。
プロフィール

Author:品川530
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR