スキー臨今昔

そのバブル懐かしき90年代初頭、首都圏からは、信越、上越、蔵王、猪苗代、白馬…の各方面に「シュプール号」が走っていました。信越線北部などは、さらにJR西、JR東海からの「シュプール号」もやってきて、列車が着くと、スキー場へのアクセスバスが次々と駅前から出て行きました。

撮ったことはありませんが、そのまた昔は、「○○スキー」、はたまた「○○銀嶺号」ですね。小海線の「八ヶ岳銀嶺号」、飯山線の「戸狩スキー」など、蒸機牽引の列車も、写真では見たことがあります。

横軽がなくなって、信越へのシュプール号も姿を消すと、なんだか放心状態で、スキー臨を目当てに撮影に行くことは少なくなりました。その頃、そろそろ少なくなってきたEF65PやFの原色機を撮りに行くと、高崎線でも東北線でも、583系のシュプール回送がやってきて、「そういえば、客車のシュプールってもうないんだっけ……」と思いながら、シャッターを押したものです。

583系のスキー臨は、まだかろうじて今シーズンも残っていますね。この写真の99年に比べると、相当、外板もくたびれてしまいましたが。。。

シュプール号の時代

その土曜の新聞記事は、映画「私をスキーに連れてって」のストーリーに託して、バブル時代とスキー、恋愛とのかかわりを綴っていました。鉄の世界で言うと、そう、「シュプール号」の時代ですね。

金曜夜、スキーヤーのクルマで渋滞する関越道を、スキーラックのない我がレガシイは、今週もKさんやTさんを乗せ、信越線長野以北へ向かいます。レインボーや14系のシュプール号をバルブしながら、抜きつ抜かれつ、夜が明けた妙高高原には、逆方向からJR西発のシュプール号も続行で到着……。

眠い目をこする間もなく、冷気を横切るように、EF62が雪原にシュプールを描いていきます。すでに、長野オリンピックの開催と横軽の廃止が決まっており、ロクニの運命はわかってましたが、まさかレジャーとしてのスキーが、そして「シュプール号」も、このあと衰退の一途をたどるとは、想像もつかなかったなあ。。。

この写真を撮った93年が、日本のスキー人口のピークだったそうです。街には毎年、アルペンのCMで広瀬香美が流れていて、それでも、僕らは、レガシイに三脚を積んで、「いやあ、素晴らしいねえ~」と、ロクニのシュプール号ばかり、追っかけていました。

鉄もバブルへ向かった

昨日、朝日新聞の土曜版に80年代後半にテーマをとった「恋も経済も右肩上がり」と題した記事が載っていました。バブル絶頂といえば、87~89年頃でしょうか、ちょうど国鉄がJRになり、オリエント急行だ、アメリカントレインだ、とイベント列車花盛りの時代です。

国鉄末期は、現場公開や小規模なイベント列車が、「とにかく少しでも増収を」と、慣れない現場の皆さんが手作りで、それは一所懸命、運営されてる様子でした。今月のRF誌に、86年の竜華機関区のこんなイベントの写真を掲載いただいてますが、今から思うと、この頃には効率なんて話はあまりなかったような……。

JRになった翌88年は、企業とタイアップした、派手なイベントのピークだったと思います。「はいはい、予算? ありますよ」の時代(笑)、こちらも、こっちだ、あっちだ、と撮り歩いて、何だか時代と一緒に浮かれてたなあ。。。

いまや、イベントひとつにも、シビアな効率が要求されることは、自分の仕事に翻って考えると、よ~くわかります。タイアップする企業の側の状況もすっかり変わりました。動態保存車両の維持費が云々されるのも、仕方のないことなのでしょう。

でも、あの時代、手作りにせよタイアップにせよ、なんだかいろんな列車が生き生きと走っていて、楽しかったですよね。

止まっている時間

ふるさと銀河線では、一昨日ご紹介した川上駅以外にも、いくつかの好ましい駅舎を見てきました。ほんとうは列車で降りてみたい、レンタカーで急ぎ足で回るなんてもったいない、旅情あふれる駅がいくつか残っていました。

昔、均一周遊券とリュックサックで蒸機を撮って回った頃、よく駅の手荷物一時預り所に荷物を預けて、カメラと三脚だけで歩いていったことがありました。細い針金で荷物に縛った預かり票の半券をもらって……。

そうそう、小さな駅の木造駅舎には、こうして左に出札窓口、右に荷物預かり所が並んでいたなあ。今、窓は閉められて、その上に看板やポスターが掛かっていますが、この雰囲気、あの日のままですね。

今はまだ辛うじて全国のあちこちに、こんな時間の止まった駅が残っています。でも、それもあとしばらくのうちに、かなりが姿を消すのではないかと思います。木造駅舎にふたつの窓口が並んでいたことも、思い出の彼方に消え去ってしまうのでしょう。

この大誉地駅は、あと3ヶ月で、駅そのものが止まってしまいます。。。

北見のポン湯

石北本線の撮影地といえば、何といっても常紋の前後が有名ですが、そのまた前後にも、好ましいポイントが散在しています。

北見側から留辺蘂の手前で国道がオーバークロスしているあたりも、そのひとつで、陸橋のたもとには、古い温泉宿と、大衆食堂があります。ここの食堂には何度もお世話になっており、昼食をすますと、はて、午後の8072レを陸橋の上から撮るか、その先の踏切でカブリつくか、いつも迷うところです。

今回は、原色機が前、ということもあり、素直にカブリつくことにしました。順光、森バック、そして遅いスピードで威風堂々やってくるその素晴らしさはPPになっても、変わりません。また、今回は編成後部がスカコキなのが逆に功を奏し、後ろのDDの顔がいい角度でファインダーに!

留辺蘂の向こうでもう一度撮ってから、空港に向かうには早かったので、「ポン湯」と呼ばれる温泉に、初めて入ってみました。ちょうどいい、ややぬるめの湯、これはゆっくりできるなあ、と湯舟に浸かってると、眼前にクリカラモンモンな方が2名も……小心者の当方、残念ながら早々に退散せざるをえませんでした(笑)

名残りのふるさと銀河線

北見では2年前に行った小さなバーも健在で、気分よくほろ酔いでホテルへ戻りました。今回のきたぐちホテル、初めての宿泊でしたが、コストパフォーマンスに優れ、また細やかな気遣いのある、いいホテルでした。

翌朝、チェックアウト時に、クルマを駐車場から玄関に回し、エンジンをかけておいてもらうという、思わぬサービスに、朝からすごくいい気分で出発、そして雪晴れの留辺蘂陸橋でDD51貨物をゲットしたあとの充実感!

返しの貨物8072レまでの時間は、地元のオーソリティーおすすめのコース、今春廃止が予定される、ちほく高原鉄道ふるさと銀河線へ向かうことにしました。あちこちで鉄の姿も散見、追っかけのクルマが何台もいたのには、さすがに驚いたなあ。。。

国鉄の雰囲気を伝える、いい感じの駅舎がいくつか残っていました。この写真の川上駅はその代表格で、列車が着くやいなや、短い停車時間のあいだに駅の写真を撮ろうとする人たちが何人も降りてきました。

やがて、そんな人たちも列車に戻り、北見行きが静かに発車、追っかけのクルマも次を目指して走り去ると、川上駅のまわりは再び時間が止まり、まるでドラマか童話の世界にいるような、深々とした静けさに戻っていました。

メンメは北見で

帰りの飛行機が女満別便だったため、土曜の宿泊は北見にして、翌日は石北のDD貨物を狙うことにしました。で、返しの逆向き重連は、あまり摩周から離れないところで撮りたいと、ポイントを考えるのですが……。

とくに釧路行きは、引きのとれるポイントが少なく、川湯発車も、摩周発車も、何年か前に撮ってるし、両駅のスナップもやってるし、う~ん、悩みました。。。

よし、もう情景写真で行こう。ならば、と思い出したポイントは、いい感じの逆光シルエットになっており、木々越しに撮るのも雰囲気、雰囲気。もう1台、先客のクルマが止まっていましたが、のんびり挨拶を交わしながら、冬の冷気の照り返しに身を委ねます。

やがて雪原をすべるようにコンプレッサーの息遣いがふたつ近づいてきて、白煙と一緒に、冬の夕日に優しく抱かれていきました。

たまには、こんな写真もいいもんです。カメラを片付けて、クルマは一路、美幌峠を越えて北見へ。飲み屋街の小さな居酒屋で、あったかいお酒と、おいしいメンメが待ってました。

重連、五十石から石山へ

結局、行ってきました。土曜、雪の羽田を1時間遅れで発ったJL1141便は、40分遅れで釧路空港に到着、レンタカーの手続きやってると釧路川にはもう間に合わない……こんなときに限って、現地は快晴、はやる気持を抑えながら、塘路の手前から何とか追っかけの流れに乗りました。

さすがに塘路発車は何度も撮ってるので、五十石でカブリツキをやって、石山へ。いやはや、途中を省略したにもかかわらず、踏切へ入る道はズラリ鉄グルマの列で、国道のほんの手前でやっと駐車できるという状況でした。さすが、久しぶりの重連、なかなかの人出のようです。

とても石山の斜面まで行く気になれず、以前から気に入ってる踏切の反対側のアングルへ。本来ド逆光のアングルですが、若干雲が出ていい感じの露出になり、煙も巻かず、満足!

さて、逆向き重連になる返しはどうしようか? と考えはじめたとき、何も食べてないのに気づき、やっとみつけたコンビニに駆け込みました。

冬の湿原号

今年も釧路に「SL冬の湿原号」の季節がやってきました。今週末は重連運転の予定です。松の内が明ける頃になると、こちらも釧路の炉端焼、脂ののったメンメの匂いが恋しくなってきます。

4年前、初めて「湿原号」を撮りに行きました。東京近郊ではなかなかお目にかかれない雪の蒸機、それに走る舞台はフォトジェニックな湿原地帯、それだけでも魅力的ですが、太平洋炭鉱専用線の一風変わった顔したDLや根室本線のDDも撮り、夜の旨いものと合わせて、楽しい週末を過ごすことができました。

ロクイチやパックにかまけて「C62ニセコ」をまったく撮っていない、というオジサン鉄の風上にも置けない身の上(笑)には、北海道の動態保存蒸機といえば、この2輌のC11です。ええ、私はそれでいいんです!、、、といいながら、釧路へ何度か通うにつれ、激しく後悔したりもしましたが(笑)

釧路川、塘路発車、五十石陸橋、石山、そして標茶のビーフシチュー、茅沼の温泉。。。う~ん、いいなあ。雪模様だった天気予報も、さっき見たら、晴れ時々曇りに修正されちゃってました。。。

タバビー

EL成田臨初期の頃、高崎方面からの12系の多くは高崎に駐在する田端のPFが牽いてきました。91年のこの写真、ゴハチを撮り終えた後「天気もいいし、メシの前に、一応撮っとくか…」でやっつけたカットが、いまや切ない思い出の一枚になりました。

あの頃、よく、田端の本所に駐在するPF初期車を「タバピー」、同じ田端所属でも品川に駐在する後期車を「シナピー」と呼んでいました。PFの運用に目の色変える昨今と違って、まあ、まだ「ゴハチの敵」の延長線上の時代です。

シナピーがなんたってブルトレなどの東海道が運用の中心だったのに対し、タバピーは「あけぼの」ぐらいで、あとはけっこう地道に日々の臨時運用に励んでいた感じでした。ゴハチを撮りにいったときに、ついでに撮ったカットがこうしてけっこう残っていますが、中には、「オリエント急行」などの華やかな運用もあったなあ。。。

気がついたとき、タバピーから初期車はほとんどいなくなり、シナピーと同じ後期車ばかりになっていました。残り少ない「本来のタバピー」(笑)、たしか1028号機でしたか、同じカマが連日成田臨を牽いてきたとき、時代の移り変わりに愕然としたものです。

パンタが大きくて、ナンバーもちゃんと読める、スノープロウ付きのPF。タバピー、けっこう好きだったなあ。

高崎からの成田臨

朝のゴハチの時間が終わり、次にやってくるのが高崎方面からの12系でした。ゴハチ初期の頃は「PF、いいよいいよ、撮らなくても~」でしたが、何年かEF62がスルーでやって来て、これは貴重だと、喜んで撮ったものです。

しかし、これが今思えば、田端のPFの減少の第一歩でした。JR初期の頃、田端のPFは必ず何輌かが高崎に駐在していましたが、初期車の廃車によりこれが減少、62のスルー運用は、PFの不足を補う意味もあった……。

やがて、12系は高崎にいる唯一輌のいつも同じPFが牽いてくるようになり、その次にはPトップが喝采に迎えられて走ってくるようになりました。が、すでにそのとき、高崎には1編成を組めるかどうかの12系しかなく、成田臨にはモントレー色の165系が混じるようになりました。

183系などが主力となり、その165系モントレーさえ、いまや懐かしくなりました(笑)高崎からの成田臨の変遷には、そのまま、国鉄車輌の消え行く時代を見ることができますね。

1月の朝の光

成田臨のゴハチは、主に長野からの団臨を牽引していました。始発電車が走り始める頃の上野を出て、我孫子で小休止。我々もそれをバルブしてから、成田までの間の、思い思いの撮影地へ急ぎます。

1月初めの頃は、6時前後の我孫子ではいい感じのバルブができますが、中旬を過ぎると明るくなってしまい、光が中途半端なただの停まり写真になってしまいます。

片や、その後の走行写真のほうは、走り始めは木下あたりがやっとだったのが、我孫子方へ選択範囲がどんどん広がっていきます。この新木~布佐の切り通しなども、たしか1月中旬以降、ギラリをものすることができました。

97年の碓氷峠の廃止で、このコースの成田臨は消え、こんな朝のシーンを見ることは叶わなくなりました。今年も、1月の朝、そろそろ「出雲」の撮影範囲が広がってきていますね。

成田臨の日々

88年からのある時期、毎年の撮り初めはいつも「成田臨」でした。朝早い成田線の沿線、主に安食、小林あたりで、多数の知人と「いやあ、どうもどうも、今年もよろしく」と、新年の挨拶を交わしたものです。

驚きのゴハチ入線から、やがてそれが恒例になり、高崎方面からはPFやEF62、後にPトップ、常磐からのEF81、東海道からは65一般が長駆やってきたこともありました。

朝日に輝きながらやってくるゴハチの時間が終われば、PFやEF62の順光タイム、そして昼間の時間をランチ雑談で過ごすと、松崎あたりで、夕方のギラリが待っていました。

ゴハチが去り、最後にPトップの12系が消え、時移り、今や成田臨は、波動用に身をやつした特急用電車の通う路となりました。

あの沿線の冬の晴れた日、特有の冷たい風には、新年の我が身をキリッとさせるようなところがあります。さまざまな場面を思い出していると、今年も、天気の良い日に、行ってみたくなりました。

最後に撮った現役蒸機

30年経つと、さすがに記憶がトリップしており、今回ネガを見るまで、この米子での写真が、最後に撮った現役蒸機とは、まったく思ってもみませんでした。ずっと、同じ74年3月の九州だと、思い込んでいたのです。

扇形庫の横にいたこのC11を撮り、次に、給炭台のところでD51を撮っています。資料を見ると、倉吉線DL化の1か月前、山陰本線にもまだかろうじて蒸機の運用が残っていた時期です。

ネガのコマを追っていくと、D51の正面や前がちのカットを撮った後、いかにも名残惜しそうに、斜め後ろや真横、給炭台を入れて……と、D51からだんだん遠ざかっています。無意識に、何かが、そうさせたのかもしれません。

栗山でも、紅葉山でもない、現役蒸機との、さりげなさ過ぎる別れ。。。そう思うと、あの日の光や影、土にしみ込んだ石炭や油の匂いが、ツ~ンと甦ってきました。

米子の扇形庫

今やもう数えるほどしか残っていない、蒸機時代からの扇形庫が、たしか米子には健在、と聞いていました。午後の大社臨が一段落して、夜の「出雲」のバルブまでの間に、見に行ってきました。

え、駅から下関方だったっけ……ぼんやりした記憶では京都方だったような……う~ん、まず移転は考えられないでしょうから、まあ、最近よくある過去への思い込みです(笑)

現場のご好意で、じっくり眺めることができました。会津若松と同じように、いまもDLやDCのネグラとして機能しており、ついこの前まで、蒸機がいた、といってもおかしくない雰囲気です。

74年の3月、ここでC11とD51を撮っています。帰って、ネガを探すと、残念ながらクラの全体は撮っていませんでした。そして、まったく意識してませんでしたが、ここでの写真が、私が最後に撮った、生きている現役蒸機だったのです。。。

大社臨

今回の米子行きは、「出雲」とともに、大社臨と呼ばれる、出雲大社初詣の団臨の撮影が目的でした。その多くは、山陽筋から伯備線を経由して、米子から出雲市へ向かいます。

これが、一昔前の関東の成田臨のごとく、客車で続々走ってきます。岡サロ、大サロ、旅路……JR西に残るジョイフルトレイン(この言葉も古くなったなあ。。。笑)が雪を蹴散らして次々に走ってくる姿は、JT全盛時代を思い出させる、素晴らしい光景でした。

考えてみれば、初詣臨の客車列車の歴史には、幾多の印象に残るシーンがあります。成田臨のロクイチ、パックはいうまでもなく、その後のPトップやレインボーガマ、高尾臨のDD、もっと時代を遡ればEF57やEF13の運用とかも雑誌のニュース欄の写真を見て、驚いたものです。

そんな昔からの運転形態がいま、最後に残っているのが、大社臨なのでしょう。なんだか変な色に変わった客車もありますが、DDやEF64の後ろに連なる客車には、新年の寿ぎを祝う車内の雰囲気がどことなく感じられて、線路端のこちらも、いい気分になりました。

一度も大地を駆けることなく

このお正月、京都の実家から、兵庫県相生の公園に静態保存されている2輌の中国蒸機を見に行ってきました。中国鉄関係のBBSなどではすでによく知られた話ですが、例のアスベスト関連で、近々解体が予定されています。

詳述はすでに最近あちこちでされていますが、この2輌、横浜で開催された「中国鉄道博」で動態運転され、その後、若干の曲折を経て、この地に保存されました。そのうちの1輌、前進型6200号機は、何と新製と同時に日本にやってきたもので、中国の大地を走ったことはない……。

カマの数だけ、運命の数あり、と先人は言いました(?!)が、こんな数奇な、物寂しい運命は、ほかにあるのでしょうか。世界中のカマを探してみても、そうそうあるものではないでしょうね。

中国で見慣れた「大同机車工廠」の銘板には、1982年の年号が入っていました。20数年のほとんどを、異国の公園で過ごして、朽ち果てていく。。。この年末も、今なお元気に大地を駆ける前進の姿を見てきただけに、なんともいえない切なさを感じます。

走れ、最後の正統ブルトレ

3連休、今度は(笑)米子に行ってきました。3月改正でいよいよ廃止が決まった「出雲」と、大社臨の客車ラッシュを撮ってきました。

併結ではない単独編成で、牽引機にはヘッドマークが付き、そして何といっても東海道を下る折り目の良さ……「出雲」の撤退は、いよいよブルートレインの時代が、今まさに終わりを告げることを実感させられます。

そして、関西に育った私にとって、「出雲」は、山陰線の伝統の客車列車の代表でした。さすがにシゴナナ牽引時代は知りませんが、DF50も、DD54も、子供の頃に見ています。特急に格上げされて、DD54がヘッドマークを掲げて走ったの、撮りたかったなあ。。。

今朝、3日目にしてやっと、雪晴れに恵まれました。上がったばかりの朝日に照らされて誇らしげに走るその姿は、僕らが少年時代から思い描く「ブルートレイン」そのものでした!

ハイデフ、遙かなり

門デフといえば、「中国の門デフ」ともいうべきハイデフの蒸機を、ごくわずかですが撮ったことがあります。元宝山の建設、そして写真の徐肺と、石家庄の前進、そんなところです。

誰が言い始めたのか、大きなボイラ横、高い位置に付けられてるから「ハイ」デフ、なのでしょうか。とくに前進には、大きなボイラに、ちょっとスマートなアクセントを付けてる感じで、よく似合っています。

日本の門デフと同じように、エリアや工場による、さまざまな形態の変化があり、興趣は尽きませんが、徐肺に続いて、石家庄も入換を除いてDL化されたとの報が……前進自体が風前の灯火なのですから、当たり前といえば当たり前ですが、ハイデフとの邂逅はもう困難を極めることとなりました。

現役の煙を求めて、あと何度、中国へ行くかわかりませんが、こんなハイデフの前進、もう一度、撮ってみたいなあ。。。

憧れの門デフ

京都から183系国鉄色の特急「きのさき」に揺られて、豊岡にC5711を見に行ってきました。保津峡の新駅から旧線が撮れそうだとか、園部のあそこが転車台のあとかなあとか、昔日の思い出と一緒に、楽しい2時間の車窓でした。

豊岡市内はすっかり雪景色、ああ、雪の生野峠で11号機を撮ったことがあるなあ、なんて思い出しながら、公園への路を辿ります。橋の向こうに見えました。憧れの門デフが……。

門司港機関区の「かもめ」専用機が、集煙装置・重油タンクに身をやつしてはいましたが、関西では珍しい門デフ、これはこれで格好良いと思いました。年末に、この機関車との昔の縁を恥づかしながら印刷物に晒してしまいましたが、キャブに乗ったときは、天にも昇る気持ちでした(笑)

集煙・重油を外した姿、C571と同じようにちょっと煙突が短くなっていますが、この姿で一度走るのを見たかったなあ。ちょっと下から見上げる、門デフのカッコよさは、30数年前と、まったく同じでした。

京都駅の匂い

京都から先ほど帰ってきました。相生の前進&人民も見に行き、梅小路ではC571の検査の様子も見てきました。実家の家族と食事に行ったり、大阪の友人宅にお邪魔したり、わずか4日間ですが、すっかり関西人に戻ってました(笑)

わがふるさとの玄関、京都駅は駅ビルの大胆な変貌で賛否両論の名を馳せましたが、実はホームの古い屋根、配線の構造などはあまり変わっておらず、在来線のホームに入ると、けっこう昔日の匂いが残っています。

昨日、山崎で朝のブルトレを撮って相生へ行こうと、烏丸中央口からホームに入りました。中央口から改札越しに1番線(いまは0番かな?)の列車が見えるのも、昔と同じ感覚です。で、そこに入ってきたのは青い12系と14系の混結編成……むむっ、なんだこれは?

サボを見て、ああ、そうかとすぐに思い出しましたが、多客臨の「ムーンライト高知」、いまや貴重な青い客車の臨時夜行です。やがてPFが編成の後ろに回り、向日町への回送列車となりました。昔、よく上り特急電車の後追いを撮った2番線から、青い編成が綺麗に収まりました。

今年もよろしくお願いします

新しい年が始まりました。今年もブログ、本館、わたくし、ともども何卒よろしくお願いいたします。

早いもので、次の日記で100回目の書き込みになります。ほんとうは今日、100回と画策してたんですが(笑)、そうはうまくいきません。。。最初は鉄を中心に、いろんな日常雑記を……と思ってましたが、進むうちに、結局は鉄ばかりのブログになってしまいました。ま、いいでしょう。今年も気楽にやっていきたいと思っています。

シゴナナ、ロクイチ、前進、、、今年もみんな元気で走りますように。

ここへお越しいただく鉄な皆さんが、今年も良好な光線、偶然の僥倖、朝夕のギラリ、フォトジェニックな煙などに恵まれ、いい写真が撮れますように。

ごく少数の(笑)、鉄以外の友人、仕事関係の皆さん、昨年はほんとうにお世話になりました。今年も、おいしいもの食べに行きましょう。

最近は、直接存じ上げない鉄な方や、ランダムで非鉄な方にもたくさんお越しいただいてるようです。皆さん、いい年でありますように。

大晦日に中国から帰ると、今度は新年恒例、京都に行ってきます。私の「鉄な実家」梅小路や、相生の前進も見てきたいと思っています。



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